天保五年(1834)、長仙寺に旧来からあった阿弥陀堂に、近江多賀大社から、多賀壽命尊の分神を勧請した。勧請した際に、多賀大社別当から出された一通の古文書が現存している。そこには・・・
多賀大社御社務之事
一、天下泰平五穀成就之祈願無怠慢勤行可有之事
一、御城主御武運長久之祈願無怠慢勤行可有之事
一、御本社御祭礼毎年四月二午日御神事可有之事
一、諸人安全之祈願無怠慢可有之事
一、法式ニ相洩候祈願等有之間敷候
右之條々相守永く無怠慢勤行可有之事
江州多賀別当所 役 者 (印)
天保五甲午年(1834)正月吉日
三河国長仙寺
この文書には、四月に祭礼を営むことが定められていた。しかしながら、明治にはすでに三月十五日と定められていたようである。これは多賀壽命殿の本尊でもある阿弥陀如来の縁日が十五日であったことや、四月の農耕の繁忙期を避けるため、といった理由が考えられる。なお、現在は三月の第二日曜が大祭の定日となっている。
多賀壽命尊
幕末の天保5年(1834)頃は、尊皇思想が高まり、神道の復権とともに、大社等の多くの分神が各地に勧請された。多賀大社からも各地に分神が勧請された。 そもそも多賀大社のルーツである、伊弉諾・伊弉冉の両神は、国生み伝説ゆかりの神であり、天照皇大神の親でもあり、明治以前は現代以上に多賀大社の威光は各地に届いていた。
本地垂迹説によれば、多賀大明神の本地仏は阿弥陀如来である。このことから、長仙寺の阿弥陀堂に多賀大明神を勧請したのであろう。多賀大明神を勧請した頃の住職は、中興九世の行篤(ぎようとく)であった。
明治になって、廃仏毀釈の嵐が渥美半島にも吹き荒れ、多くの寺院の鎮守が境内の外に隔離され、多くは村社になった。長仙寺境内の東の猿田彦神社も、もともとは長仙寺の鎮守であった。
しかしながら、そんな冬の時代にあっても、多賀壽命尊が廃仏毀釈の対象にならなかったのは、地元住民にとって、多賀壽命尊が欠くことのできない信仰対象であったからと思われる。 日露戦争の時、田原(現田原市田原町)の徴兵軍人が征露軍人出征祈祷を行った記録が残っているが、このことは廃仏毀釈の中であっても当時の信仰の篤さを物語っている。
尚、明治34年(1901)に、壽命殿は一度焼失し、まもなく再建され、昭和60年(1985)に屋根を修覆し、平成5年(1993)、待合室を増築し、今に至っている。
海とおたがまつり
長仙寺のある六連は、表浜に面していて、多くの網元によって、内海側にはない独自の非平地民の生活文化を形成していた。表浜の漁業は、地引網と沿岸漁業が主である。決して裕福ではなかったので、網元を中心にして相互扶助組織を形成していた。農耕も漁業も、網元という運命共同体の組織の上に成り立っていたのである。
その年の漁の命運を占うとして、おたがまつりの玉取りは、さながら網元の意地のぶつかり合いとなったそうである。昔は境内中を走り回り、裏山の墓地や、時には池の中にまで入り、ついに玉を見失い、争奪中止となった年もあったそうである。晴れて金の玉を取った若者は、地元に帰り、方辺(ほうべ)(表浜の断崖)に立って勝利を海に報告し、大漁を祈願したという。
このように海とおたがまつりは、切っても切れない関係だったらしい。近年、漁業は観光地引網程度に衰退してしまい、今は見る影もないが、長仙寺の東にある幽玄庭にそびえる魚鱗塔に刻まれた多くの網元達の名前に、往時の面影が伺うことができる。
※玉取りは現在行って下りません。