長仙寺の歴史

長仙寺の開山

 江戸時代初期の縁起書に依ると、「行基菩薩熊野権現の霊示に依り、谷熊の地を相し、南に渓谷、北に高山、西に大道あり四神相応の良地として、聖武天皇の天平18年(746)一宇を創建し観音寺と称した。」とある。しかし、江戸時代初期のこの縁起の真偽を証明することは難しい。
 現在残っている古文書では、「大般若経巻12巻 康安元年(1361)5月3日写本」が長仙寺に伝わっている。また足助文書(一括国重要文化財)の中に、長仙寺で書写したと言う室町初期の「韻鏡」が残っている。遅くとも室町時代には長仙寺は建立されていたものと思われる。

戦国時代

 戦国時代になって、家康は吉田城を落城し、永禄8年(1565)5月本多豊後守広孝をして加治取手に陣を張り、田原城を攻撃しようとした。家康は西郡(蒲郡)より船で吉胡に上陸し長仙寺に本陣を張った。この時家康24才の前厄祈祷と田原城攻撃の戦勝祈祷を奉修させた。効あって田原城は落城した。落城後御礼祈祷を修せしめ。家康は住僧を連れて岡崎に帰り証状を遣わし石川数正に令じて禄状を認め492石余りを与えた。永禄8年(1565)5月19日であった。
 この証状がありながら寺は無住になり、寛永6年頃(1629)寺禄は遂に自然没収され、堂守も又頽廃にまかすることになった。

江戸時代以後の歴代住職

 中興開山快盛は、家康の古証文を提げ幕府に朱印復旧を訴えたが、幕府は先規の例なしとして容易に決せなかった。そのため田原城主三宅康勝は東照権現の判物に対し傍観するに忍びないとして、寛文11年(1634)5月17日私領の内30石山林竹木を寄進した。その後の歴代住職は-

中興2世淳乗
 3世 静厳
 4世 厳乗 幽原亭を興こし天満宮を勧請する
 5世 観恵
 6世 観栄
 7世 昶春
 8世 隆盤
 9世 行篤 多賀大社から分神を壽命殿に勧請する。三宅氏の庇護は、この代まで
 10世 行深
 11世 英住 
 12世 真明 
 13世 英明 御室派から離脱。単立宗教法人となる。
 14世 文章
 15世 現住職

江戸時代の長仙寺の営み

 江戸時代は、前述の通り田原藩の三宅氏の庇護の元、なんとか寺院の体をなしていた。江戸時代初期からの宗教政策によって、ほとんどの寺院が、地域住民を檀家として管理する寺請制度を担う檀那寺であったが、長仙寺は檀家を門前の数軒しか抱えていなかった。その一方で、多くの僧侶を寄宿させて、僧侶の養成を行っていた。学僧たちは、鳳来寺や大須の真福寺などの三河や尾張の有力寺院はもちろん、遠州や遠くは高野山にも足を伸ばして仏典を書写していたようである。
 また、寺子屋を建てて、地元住民の教育も担っていた。今でも書簡の手本となる往来物が残っている。なお、旧寺子屋の建物は、明治時代に杉山村役場として使われ、戦後は講堂として使われたが、現在は薬師堂に建て替えられた。